ふと。なんとなく。

同業諸氏においては、それぞれスタンスがあるため、以下の通りではない。またそれにより成立しているのであれば、正解だといえる。
 
ライターが生成する原稿の種類にはいくつかある。ザッと見てニュース原稿をはじめとして、レビューに紹介、コラム、小説、ラノベ、評論など。この中で属性が異なるのは、コラムや小説、ラノベなど。つまり、その個人の文体や性質が先に大きく出てくるもので、それら以外については情報を伝えるために文字列を生成しているにすぎない。といったのが、かれこれ10年以上、編集・ライター業をしてきて思ったことだ。

駆け出しのころ、センスと文才に欠けると言われていた。3年で終わり。そう言われたこともある。実際のところ、センスと文才はない。それをかわいそうに思ったのか、技術を教えてくれた人たちは口を揃えて「楽しめ」といった。 正直なところ、なぜいまだに続けているのかと問われたら、まともに答えられる自信はない。「満員電車に乗りたくなかった」としか言わないだろう。

この仕事はいわゆるブラックで、辛いことが圧倒的に多い。けれども「楽しめ」である。人が生み出すものというのは不思議なもので、制作サイドの感情は確実に乗って、それは読者にまで十分な余力を残して届く。逆に楽しんでいない場合はどうだろうか。つまらない印象が十二分に届く。「つまらない」と思って書く、記者的な原稿では実はアリだ。取材でいった発表会のレポートは魅力的に書くべきかといえば、そうではない。有用であるか、実用的であるか、現実的であるか、誰かの役に立つのか。または体裁上のリリースにすぎないのか。 そういった判断のすえ、つまらないものだと強く感じたのであれば、それはそのまま流せば、有用な情報になる。読者が有用であると感じたり、楽しんだりできれば、その原稿は役目を果たしたことになる。

自分がよくやる記事には、文才もセンスもいらない。文法についても、日本人として生まれたのであれば、生存年だけ日本語を母国語として活用してきたネイティヴである。だから文法的な理解度の深さが必要なのかといえば、そうでもない。要素が伝われば良いし、書いていくうえで、書籍や記事などを過度なほどインプットすれば、それが蓄積されて標準的な形になる。そして、原稿を書いたら、大きな声で音読する。それだけを愚直に3年。それだけで形になる。あとは楽しむ心とタッチ&トライがあればいい。

ただ人は十人十色で、文体と表現はやはり異なる。5W1Hのフォーマットに沿い、さらに中学生でも読める簡潔平明な文章を意識しても、その個人のクセや色はにじみ出る。それは残すべきものだが、それに頼るのは間違いだ。上記しているように、情報をどう見せるか。文章はその手段にすぎない。A〜Zの情報があった場合、どの情報から見せ、どの情報を割愛するか。そういったパズルだと思っていい。また文章だけでなく、写真や表もその手段のひとつだ。文字で分かりづらいのであれば写真、データとして見せるのであれば表。なぜライターが文字列をベースにするのか。それは単純に特定領域内に情報を最も詰め込める手段だからにすぎない。そう割り切ることで、作業性も向上するし、見せ方への意識も高まる。最終的にクリエイティヴとなるかもしれないが、自身としてはクリエイティヴである意識は皆無で、技術職である認識が強い。

記事を読んでもらうということは、その人の有限である時間を専有すること。であれば、その時間を満足してもらうために、知恵を絞り出す。それが礼儀であり、ライターや編集者が読者にできるただひとつのことだ。読者は恋人。そう思うこともある。相手を想い、有益な情報を用意し、サプライズを用意して自分も楽しみ、相手にも楽しんでもらう。構造的にわかりやすいため、このあたりはプロレスと表現するばかりだが、ギミックは同じだ。

また一次ソースであるように思えるが、二次ソースであり、また物売りの部類に属する。その場合、自分と読者以外を意識する必要がある。サービス業者であったり、メーカーであったりだ。三方よし。それを守る必要がある。その製品が有益でない場合、もしくは仕上がりが悪い場合もあるが、褒めるだけだと三方よしにはならない。あえて釘を刺すことでメーカー側には次の糧としてもらう。そういう形で三方よしは成り立つ。タイアップでもそうだ。ここまではできる、これはできないと明記を入れる。そうではないとしたい場合の依頼は断っている。またタイアップでもあってもあまり意識をしないで原稿を生成する。大人の事情や編集サイドの判断で変更されることは多々あるが、それでもこちらの意図を残してくれるところばかりだ。

やや偉そうになるが、ブログやそれに近しいメディアのライターと編集諸氏は、楽しんでもいないし、三方よしも完成していないし、読むことによる時間の専有も考えていないと感じる。生活や承認要求のためといえばそれまでかもしれないが、幸福とは流転するものだ。誰かを幸福にしたい。知っている人の範囲でもいいから幸福にしたい。有限たる時間を奪う対価はなんであるか。それくらいの意識で原稿はグッと良くなる。

思いつきで書いてみたが、なぜかと言われるとよくわからない。第一線の編集すら、上記したことを意識していることもなく、また後続に伝えている節がないと感じたからかもしれない。いいから音読しろ。それだけかもしれないが……いまの仕事に疑問を感じているのかもしれない。ただ疑問は、次への活力になるものだ。一過性のものだろう、きっと。